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創業者 峯 久雄

平成3年、54歳で急逝

 弊社先代社長の峯 久雄は平成3年4月23日に急逝しました。54歳の時でした。 昭和38年に創業以来「防災是人生」を社是として、防災業に心血を注いできました。サウスポーのスポーツマンで晩年はゴルフを愛し、シングルプレイヤーでした 。 ロマンスグレーのスマートな紳士でした。

 先代は昭和12年2月に三重県尾鷲市で生まれました。 学生時代は器械体操、社会人になってからは野球で鍛えた体は実に強健でした 。 写真2は昭和31年頃のようですが、裏に「自称五尺六寸十八貫」と記されています。

写真1〜3

銀行員時代

 先代は高校卒業後、百五銀行に就職しました。 写真3は銀行の仲間と大阪に出掛けたときのスナップのようです。 幾分ふっくらした面立ちです。生涯で最も体格の良かった頃でしょう。アルバムには「大阪城隣大手前公園」と記されています。 銀行員時代に身につけたビジネス知識は、その後の企業経営に大きな力となりました 。

 当時、銀行の本店から自分の勤務していた支店へ、汽車で現金輸送をしたことがあったそうです。先代は同行者もなく一人きりだったので、現金の入ったトランクに腰を下ろして身構えていたそうです。しかし程なく居眠りしてしまい、乗り過ごしてしまいました。汽車の到着時刻には、支店の仲間が駅まで出迎えに来ていたのですが、先代が降りてこないので大騒動になったそうです。先代の大物ぶりを世間に知らしめた事件でした。

防災業界へ転身

 先代の叔父が兵庫県で防災業を営んでいて、そこへ転職したのが、この業界に入ったきっかけでした。当時の先代は電気の知識に乏しく、相当な苦労があったそうです。今はもうありませんが、浅野防災工業株式会社というメーカーへ修行にいって猛勉強したそうです。

 その後、名古屋支店の立ち上げを志願した先代は、初めての土地で悪戦苦闘しました。名古屋は余所者が来て商売をするのが難しい土地柄でもありました。兵庫の本社はそもそも名古屋存続が可能とは考えていなかったようです。しかし、厳しいながらも次第にお得意先も増えていましたし、助けてくれた名古屋の人々にご恩返しもせぬまま逃げ帰ることは先代には出来ませんでした。暖簾分けをして退路を断ち名古屋で頑張ることにしたのです。

 写真4は創業当時でしょう。 お客様の工場(山崎鉄工所/現ヤマザキマザック株式会社様)に取り付けた自動火災報知設備総合盤の前でのスナップです。

写真4〜5

直営技術者へのこだわり

 しかし依然厳しい状況は続きました。特に技術者の確保には頭を悩ませたそうです。苦労して腕のいい下請け業者を探し出してきては施工を任せるのですが、コンスタントに仕事が受注できないので、暫く仕事がないと他社の下請けになっていってしまうのです。ずっと仕事が頂けなくて、やっとの思いで次の仕事が受注できたときには、レベルの低い下請け業者しかいないといったことが多々ありました。

 こういった経験から、お取引先にいつでも変わらぬ高品質なサービスを提供するためには、下請け業者ではなく、自前で直営技術者を抱えなければダメだという信念を持つようになりました。これこそが現在も変わらず、日本報知機を日本報知機たらしめているポリシーなのです。

 さて、晩年ゴルフとともに打ち込んだ趣味が民謡(写真5)です。 稽古の様子や発表会などを録音したカセットテープがたくさん遺っています。 先代の告別式にはそのテープを皆さんに聞いて頂きました。今頃あの世で思う存分歌っているでしょうか。